君たちはどう生きるか 感想(ネタバレしかない)

こんばんは、もに蔵です。

 

君たちはどう生きるか」を観てきました。

 

どこにも発散できる場がないのでここに書きます。とりとめもなく。

 

作品全体についての感想です

宮崎駿監督が、おれはこれまでこう(今回の映画)生きた。おまえらはどう生きるんだ???と言われたような感じがしました。

どこかジブリの走馬灯を見ているかのような、終わりを悟り、これまで歩んできた全てを映画の形で残したんだなぁと感じるような、そんなふんわりとしたイメージを抱きました。

 

また、この作品、大きく分けて2つに別れていると思いました。

前半の現実世界での話、後半の他の世界での話。

これ関しては登場人物とかと絡めて書きたいので後述させてください。

 

登場人物とそれに関わることについての考えです。

大親方こと「大叔父」、そして「お父さん」そのどちらにも宮崎駿監督が重なりました。

 

まず大叔父について、少し考えたことを徒然に書いていきます。

大叔父には、ジブリの監督としての宮崎駿を感じました。様々な世界を作ったらしいんですが、アニメや映画のことだなぁと思いました。塔の最上階で孤独に過ごす老人は世界を作り、世界を保つ後継者を探しています。

はじめは自分の仕事をそのまま後継者候補にやらせようとしましたが、悪意があると言われてやってくれない。ならばと悪意のない素材を用意したけどそれも使ってくれない。そして最後には全てをめちゃくちゃにされて世界が壊れてゆく。

 

大叔父に関連する部分は、スタジオジブリに置き換える事ができるのかなと思いました。

 

石を積むというのは映画やアニメなどの作品を作ること。

ではその石に宿る悪意とは?

お金を儲けのために、作品を作らなければならないということなのかな。

 

悪意のない石とはつまり、純粋に自分で作りたいもの、監督の作りたかった作品とかではないでしょうか。

有名な話だと「アシタカせっ記」と「もののけ姫」でしょうか。プロデューサーの案でタイトルが「もののけ姫」に変更されたという話だったと記憶しています。

特に詳しい訳ではないのですが、その変更がすんなりと通ったとは思えません。しかし、結局はそれで通ってしまった。本来思い描いた作品は少しだけお金儲けのために変わってしまったのです。

 

悪意のない石が、お金儲けを排除したものだとするならば、それを見て裏切りといったインコの王様に投影された人物はきっと、スタジオジブリの代表の方なんだと思います。

 

素材は用意されているので、インコの王にも適当に組むことはできますが、それではきっとだめだったんです。儲けを求めて適当に組まれた世界は脆く、あっと言う間に崩れ去り、さらには自分たちのいた場所まで破壊する結果になりました。

 

インコの王がスタジオジブリの代表であるならば、インコたちはスタジオジブリで働いている人とかですかね。

 

これまで、インコの王をさも悪者かのように書いてきました。しかし。インコの王は、大量にいるインコたちを食べさせて行かねばなりません。

食べさせるためには、儲けが必要なのです。それなのに、儲けをすべて無視した作品を作ろうとす大叔父を許せなくて当然なのです。

 

 

この辺なんか、この思考に誘導されている気がして悔しくなってきました。

 

 

さて、向こうの世界ではあんなに怖かったインコたちが、元の世界に出た途端かわいいインコになったのも印象的でした。

どれだけ偉い人でも、優秀な人でも、そのことを知らない、関わりがない、力を発揮できない分野ではただの人の変わらないということなのかな、と。

外に出たら、みんな可愛くただのインコとしてプリプリうんこして自由に飛び回る。

ジブリがなくなってもみんななんだかんだ生き残ってけるでしょ的な印象を受けました。

 

 

次は、お父さんです。

お父さんはずっと仕事してます。肝心なときには大体仕事でいないか、すでに手遅れになっています。宮崎駿が仕事人間であることは想像に容易いので、きっと父親としての自分なんじゃないでしょうか。

 

現実世界でのおばあちゃんたちとなつこさんは、マヒトが異世界につながる塔に行くのを止めますし、呼び込む鷺を追い払います。

これは、創作という不安定な道に進む人間をとめる周りの人間たちのことなのでしょうか。さんざんやめたほうがいい行くなと忠告しているのに、結局マヒトは創作の世界に入っていくのは漫画家さんの体験談でよく見るような展開ですね。

 

塔に入っていった初めて目にした物がお母さんの偽物の像(?)だったのも、創作の世界をあらわしているのかと思います。

創作の世界だったらお母さんは再現できますが、生きていた人間そのままを作ろうとすると現実との乖離は身近であればあるほど感じやすくなるんだと思います。また、マヒトはまだ創作の世界に入ったばかりなわけです。そりゃいい出来のものは作れないってこともあるのかもしれません。

 

そんなこんなしてるうちにマヒトはどっぷり創作の世界に入っていくわけです。

 

その時、ついでにおばあちゃんも世界に入ります。そしてなぜか、アネゴ肌の若い美人として登場します。タバコの描写などから、これまで露骨に卑怯な人間として書かれていたので見事な対比です。

現実にいた人間を創作に登場させるとき、理想の姿として映し出したということなんですかね。ちびまる子ちゃん的な。

 

最後は、マヒトです。

正直マヒトは一番よくわからないです。なんでだろうと思ったら、マヒトは向こう世界に行ってから別に考えや気持ちが変わった感じがしなかったからだと思いました。

創作の世界に行ったマヒトの行動原理は全て「なつこさんを助ける」の一点のみです。セリフもそれほど多くなく、気持ちの描写もないためマヒトが一番よくわからないのです。

作品全体をとおして、明確にマヒトの気持ちを表していたのらマヒトが「君たちはどう生きるか」をよんだ時と母のパン食べてた時だけなんじゃないかと思います。

 

大量出血の怪我を自分でしたときにも、ほぼ真顔だったマヒトが涙を流したのが母から送られた「君たちはどう生きるか」を読んだときです。

そして、「君たちはどう生きるか」をターニングポイントとしてマヒトは覚悟完了の姿にになります。それまでは、義理の母に意地張ってみたり、でも体調が悪そうだったから顔出してみたり、鳥を倒すために弓を作ってみたりと、色々な思考が見えたマヒトはそこから、消えたなつこさんを助けるという思考、行動一本に変化します。

創作の世界に飛び込んだのもあくまで、なつこさんを助けるためなんじゃないでしょうか。

つまり、マヒトは「君たちはどう生きるか」を読んだ段階で、自分はどう生きるかを決めたのです。だからこそ、再三の大叔父の勧誘にも全く靡かなかったんだと思います。

大叔父が世界を継ぐのは、血がどうたら言っていたのできっと息子さんを投影させているのだというのは想像に難くないですが、マヒトはもっと独立した存在であるような気もします。 

 

大叔父から見たマヒトはきっと監督の息子さんのことを示しています。視聴者から見たマヒトは、今回の映画「君たちはどう生きるか」の主人公としての存在でしかないんだと思います。

 

マヒトのことを考えると、この映画の構造めっちゃ簡単では?と考えつきます。

この映画、要は「君たちはどう生きるか」を読んで、少年がどう生きるかを決めました。というお話でしかありません。

そこに宮崎駿監督が人生の先輩として自分の話を入れ込むわけです。まぁ色々大変だぞ的な感じで。

この映画みてよくわからないのは結局何なの?が分かりづらいからなきがしますが要はそういうことです。

この作品のタイトルが「君たちはどう生きるか」なのは、視聴者への問いかけの他に君たちはどう生きるかがそのまんま主題というか全てだから何ではないでしょうか。

予告がないのも、「君たちはどう生きるか」以外の話をしてないので「君たちはどう生きるか」が予告どころか内容全てなわけです。

 

と乱れに乱れながら感想を書いてきましたが、変な考察(考察というよりも感想)をするよりもスタジオジブリの映像すげぇーーーー!!!!と目に入ってくる情報をいいなと思って最後にはどう生きよっかなー!と悩むのが一番いい気がしました。

 

もに蔵でした。